Coffee コーヒー/特別寄稿・相馬千秋
余韻をお楽しみください。

初代ディレクターとして立ち上げに尽力し、現在も理事として急な坂を支える相馬千秋さんより、横浜・日本の芸術環境について、ご寄稿いただきました。

急な坂道を駆け上がる —日本の小劇場と急な坂スタジオの10年

急な坂スタジオ 初代ディレクター2006-2010
相馬千秋

 2006年から2016年。10年という年月は長いようで短いようで、振り返ると確実に何かが変わっていることに気がつかされる、そのような時間である。

 10年前、横浜市は全国に先駆けて遊休施設を転用した舞台芸術創造拠点を作るべく、企画運営団体を公募した。この公募に際し、長年横浜のインディペンデント・シーンを担ってきた小劇場STスポットと、西巣鴨で稽古場やフェスティバル事業を運営していたNPO法人アートネットワーク・ジャパンが共同事業体として応募することになった。私は当時、F/Tの前身のフェスティバルで働く一制作スタッフだった。当時STスポットのスタッフであった加藤弓奈(現・急な坂ディレクター)と中村茜(現プリコグ代表取締役)とともに、運営事業者選考会でプレゼンを行ったのが今から10年前。まだ10年というべきか、もう10年というべきか。とにかくいろいろなことがあった10年だった。

 「急な坂スタジオ」という名前は、当時STスポットを拠点にしていたチェルフィッチュの岡田利規さんによる命名である。当時はまだ海外進出前。矢内原美邦さん、中野成樹さんと並んで、急な坂スタジオの初代レジデント・アーティストとして、日々の稽古を急な坂スタジオで行っていた。

 彼らレジデント・アーティストをはじめ、多方面に活躍する演出家、俳優、スタッフらが日常的に出入りするスタジオには、全神経を集中して取り組まねばならないクリエーションの只中で、「いちいち説明のいらないホーム感」があったと思う。今にして思えば、この「いちいち説明のいらないホーム感」が、昨今の公共の文化施設の中でいかに例外的なものであるか、痛感するのだが、当時は全体的に大らかだった。(今なら「急な坂スタジオ」という名前も、怪しいかもしれない。)

y-gsa急な坂スタジオ×Y-GSA リノベーション・プロジェクト

 2006年から2016年。この10年間に、日本の舞台芸術、とりわけ「小劇場」と呼ばれるインディペンデントな演劇シーンには、いくつかの決定的な変化が生じた。ひとつは、70年代生まれの演出達が、それまでの日本の演劇界のメインストリームとは別の地点から独自の演劇言語を切り開き、海外にもその主戦場を拡張していったこと(チェルフィッチュ、矢内原美邦、庭劇団ペニノ、Port Bなど)。その後、2000年代に演劇の実作を第一線のアーティストから学べる大学の学科が設置されたこともあり(桜美林大学、多摩美術大学、京都造形芸術大学、日本大学芸術学部など)、大学卒業後すぐに活躍を始める80年代生まれの演出家や劇団が、サブカルや伝統芸能などを取り入れたハイブリッドな演劇を次々に開花させていったこと(木ノ下歌舞伎、マームとジプシー、ままごと、岡崎芸術座など)。

 急な坂スタジオは、これらの変化が生じた一つの「現場」であった、と断言していいだろう。「現場」とは、これらの変化が実質的に生成される場所、すなわち創作の稽古場である。しかしただの稽古場ではない。20代から30代の若いアーティストや俳優が集い、互いに刺激し競い合う環境が自然と形成されていた。さらにこれは現ディレクター加藤弓奈の功績と強調しておきたいが、急な坂スタジオが応援する劇団の制作者を、急な坂スタジオの契約スタッフないしアルバイトとして雇用し、芸術面のみならず制作面でも劇団の発展を間接的にバックアップする、というゆるやかなサポート体制も築かれていった。こうした試みがあってはじめて、急な坂を通過する小劇場の劇団は、急な坂道を駆け上がるように、どんどん勢いを増して成長を続けてきたのだ。

 次の10年もまた、彼らのように急な坂スタジオを「現場」とする人々が、ここを「いちいち説明のいらないホーム」と感じてくれるような環境を持続させられたらと切に思う。そうした環境こそが、世界の主戦場に出る一歩前の才能が消費されない貴重な時間となる。それが、いまもっとも日本に足りない創作環境だとしたら、なおのことだ。